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「太陽を抱く月」でヨヌが送られる「活人署(ファリンソ)」の歴史は、「済衆院」へと続く朝鮮庶民の二大医療機関 [韓国・ドラマと歴史]

  ドラマ「太陽を抱く月」がいよいよ更におもしろさを増してきました。
でも来週はドラマとしての放送は休みなんですよね、そこで再来週から登場するという、ヨヌが送られてしまう「活人署(ファリンソ)」についてちょっとばかり予習しておくことにします。
  昨晩の放送では送られることにはなったものの、結局は途中から拉致されて引き返すことになってしまいましたが、その「活人署」は貧しい庶民にとっては大変に有り難い場所なのです、しかしその活動内容はとっても過酷な場所だったようです。
ただ、こういった機関があったればこそ、朝鮮の現代の医療施設へと繋がっていったという歴史も見えてきます。

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  李氏朝鮮時代になる前の高麗時代には、済危宝・東西大悲院・恵民局という三つの庶民救済の機関がありました。

  済危宝は、集められた資金を貸したりして増やし、それを貧しい者たちの病気治療などに充当させていたという公共団体のようなものだったらしいのですが、1391年の高麗滅亡と同じくして廃止されてしまったようです。

  しかし、時代が変わり支配者が変わった1392年以降の李氏朝鮮時代になっても、そのまま引き継ぐような形で、国王の目に見える民への恩恵のひとつとして、庶民の救済という目的のために活動が続けられていったのが、東西の「大悲院」と「恵民局」という二つの機関です。

  「恵民局(ヘミングク)」は、これは字ですぐに分かるかと思いますが、「チャングムの誓い」でもよく登場した「恵民署(ヘミンソ)」の前身で、伝染病の感染を防ぐというような活動や、貧しい人々の治療や薬を与えるというような活動をしていた医療機関です。
ただ、漢陽という地域限定のような感じで、その活動範囲には限界があったようです。

  そして、「恵民署」といえば「活人署(ファリンソ)」というくらいに、我々のような日本人でも対でよく耳にすることのある「活人署」、その前身になっていたのが東西の「大悲院」ということになります。
  こちらは貧しい人々を集めて薬や食べ物を与えるとともに治療も施すという、医療だけではなく救済をも兼ねたような活動をしていたようで、単なる医療施設的な存在の「恵民署」よりも、さらに幅広い活動目的の施設だったようです。
現代ならばホームレスのような貧しい人まで援助するという、医療と福祉を合体させたような機関だったと言えるかもしれません。
  また、疫病などが流行すれば臨時の隔離施設のような役割もして、患者の治療や看護はもとより、食品や衣料品·薬などを配給したり、また、死者が出たりすれば、その埋葬まで行っていたというのです。
この活動内容を知れば、なぜ「太陽を抱く月」で、ヨヌのような存在の女性が送られることになったのかが、ちょっとばかり垣間見えることと思います。

  こうして高麗時代からあった東西の「大悲院」が朝鮮時代になってもそのまま引き継がれたのですが、1414年ですから世宗の父王である太宗の時代ということになります、「東活人院」と「西活人院」という名称の個々の施設に改められます。

  そして、あの「王女の男」の世祖の時代である1466年になると、こうした東西別個の「活人院(ファリンウォン)」を、機能としては東西を統合させたひとつの同じ組織である「活人署(ファリンソ)」としました。
ただ、やはり庶民の間ではそんな機能的なことには関係なく、以前からの位置的な馴染みのある〝東西〟の名前がそのまま残り、東大門の外にあった活人署を「東活人署(ドンファリンソ)」、西小門の外側にあった活人署を「西活人署(ソファリンソ)」という、組織としてはひとつの「活人署」であっても、こうした二つの呼び名の「活人署」が誕生したということになるわけです。

東西の「活人署」跡に残されている碑(上が西活人署、下が東活人署)
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  こうして高麗時代から引き継がれてきた庶民の医療や救済を目的としたふたつの機関は、「活人署」と「恵民署」と名前は変えはしたものの、庶民の生活の「両医司」として存在してきたのですが、ドラマで言えば「トンイ」の頃、粛宗王の1709年になると、一方の「活人署」がかなり縮小されることになります。
そして、その粛宗とトンイの息子である英祖王の時代の1743年には、「活人署」は「恵民署」に統合されてその名を消すことになり、庶民の医療や救済は「恵民署」の名の元に全てが行われることになっていくのです。

  そしてその後は、ドラマで言えば「済衆院(チェジュンウォン)」で見てきたように、高宗王の時代1882年に「恵民署」は廃止されることになり、その活動は「済衆院」へと引き継がれていくことになります。
こうして西洋医学をも取り入れた、本格的な医療機関が誕生していったわけです。

  つまり、「活人署」と「恵民署」は、高麗時代から李氏朝鮮時代を経て「済衆院」へと続く、朝鮮の貧しい人々の医療や救済の礎であり、その歴史の橋渡しをしてきた医療機関であり施設だったのです。
そしてそれは更に、「済衆院」から「大韓赤十字病院」へという歴史へと繋がっていくのです。

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